FEATURE

歴史

アメ横センタービル竣工にあたって
当ビルはアメ横、発祥の地である。
戦後、極度の食糧不足に悩む人々によって、自然発生的な闇市が誕生した。
これがアメ横の始まりである。
その後近藤マーケットと呼ばれた頃、海外引揚者を中心に海産物、芋アメ、菓子類等食料品関係の業者が多数入居し殷賑を極めた。
さらに駐留米軍の放出物資を扱う業者も加わり次第に芋アメからアメリカのアメ横へと微妙に変化していった。
たまたま昭和二十四年末、隣接地よりの類焼で建物の大部分を焼失し、大打撃を蒙ったが、一夜にして応急店舗を作り、営業を再開した。当時の若くして雑草のようなエネルギーを秘めたアメ横の姿を彷彿とさせる歴史の一齣である。
その後、ようやくにして敗戦の虚脱から抜け出し、日本経済の発展と共に、着実に業績を拡大、所謂「アメ横」の名声を高くした。
さらに将来を見超し、協力して土地を取得、確保し、次の飛躍、繁栄を願って協議の結果、上野振興株式会社が設立された。
昭和二十六年四月のことである。その後日本の復興と共に街並みも次第に整備されたが一方建物の老朽化が進み、特に周囲との不調和が目立つようになった。加えて、防災上の危険をしばしば関係官庁より指摘された。会社側としても、美観並びに空間の有効利用をするため幾度となく研究を試みたが、仮営業所の確保並びに権利調整等未解決の問題が多く建築計画が浮かんでは消えることが再々のことであった。
昭和四十年代に入ると、各地に再開発の気運が盛り上がるようになってきた。
アメ横にあっては幸運にも前面ガード下国鉄変電所跡地(現アメ横プラザ)の利用が可能となり、近隣商店街のご協力によりアメ横地域再開発協同組合が結成された。同時に、東京芸術大学美術学部の御指導、台東区の格別なご配慮と全面的なご援助により開発許可を受け、上野振興株式会社・上野ストアー協同組合と二者共同ビルを建設する運びになった。
一部には、庶民的で迷路のような旧建物を惜しむ声もあったが時勢には抗し得ず、五十六年五月、仮営業所に移転し建築へと踏みきった。
着工より一年五ヶ月、今ここに内外に誇り得る新ビルは完成した。
竣工式を挙げるにあたり、夫々、深い感慨を覚えると共に、末永い繁栄を願って一層の努力を誓うものである。
因に当ビルはほぼアメ横中心部にあり敷地面積一、三〇八平方メートル鉄骨鉄筋コンクリート造り地下二階地上五階延床面積七、○六七平方メートルである。
最後にビル建設を夢に描きながら、この威容を見ることなく不幸にして亡くなられた方々とも喜びをわかち合い、深い感謝の念を捧げるとともに、権利調整に応じ、不本意ながら当ビルより去られた方、並びにこの事業に携われた関係者に謝意を表して、茲に記念として銘記する。
昭和五十八年一月十六日 上野振興株式会社
歴代功労社長
犬塚信夫 関正彦 根本勲 三上智教
建設執行役員
代表取締役社長 北岡正策 代表取締役社長 建築本部長 長田昭 常務取締役 吉田勇
取締役 青木忠雄 取締役 原清重 取締役 古川保 取締役 永井隆一
取締役 根本喜雄 取締役 石田裕康 取締役 金谷勝弘 取締役 瀬上勝義 監査役 渋谷賢一
監査役 山本宇一 顧問 櫻井敬司 顧問 小川明 相談役 中井新平 組合理事長 花川利美 副理事長 伊藤哲夫 専務理事 長谷川清
参画者
瀬上義一 宮下米造 佐藤尚由 大熊安造 五十嵐徹 宮澤厚次 新井正位 新井 清 寺田富吉
山本鉄五郎 小内貞雄 三田耕三郎 吉野典雄 長田恭子 三上富美子 小林繁雄 金沢吉蔵 国立 保
稲生道安 斉藤昭 林克也 鈴木順作 永井喜良 佐藤寅雄 山田信明 平田輝夫
金原永玉 伊藤忠次 犬塚康雄 寒川幸雄 水落祐造 佐藤勝喜 黒川宗一郎 順不同
企画
平山企画株式会社
設計
㈱構造計画研究 ㈱荒木建築事務所
施工
共同企業体 株式会社大林組 鹿島建設株式会社 清水建設株式会社
協力銀行
㈱協和銀行 ㈱太陽神戸銀行 商工組合中央金庫 朝日信用金庫 永代信用組合
功労者
老川兼吉
理事長 建設委員長 高景菅 専務理事 建設委員 山地秀樹 建設委員 金 義永
建設委員 李起文 建設委員 李起彦 副理事長 酒井 誠 理事 黎名日
監事 韓在芳 監事 姜東敏
上野ストアー協同組合
中䑓秀松 高金松 渡辺哲二 朴南奎
設計顧問(株)高橋建築設計
協力銀行
朝日信用金庫
商工組合中央金庫

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